先の記事『天城のブナと東北のブナ』では、太平洋型ブナの特徴や、天城山系においては後に続く幼樹が存在しないため、将来的に「ブナ・ヒメシャラ林」の森が維持できなくなる恐れがあることを見てきた。

講座の中で、現在の伊豆国有林の大部分は江戸時代では「御林(おはやし)」と呼ばれる直轄林で、天城御林に対してはマツ、スギ、ヒノキ、サワラ、ケヤキ、クス、カシの七木が公用以外での伐採を禁じられ、その後これにモミ、ツガを加えた「天城九木」が幕府により厳しく管理されたことが話された。このことは天城山系のブナ林の形成にどう関わったのだろうか、以下にまとめる。
(一部[Gemini]利用)

1 天城山系ブナ林の形成時期
伊豆天城山のブナ林の大半は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期にかけて形成(更新)された。天城山系全体のブナの年輪解析調査では、確認される多くのブナの樹木は、幕末から明治期にかけて一斉に世代交代(更新)したものであり、広大なブナ林が形成された背景には、江戸時代に行われた製炭などの森林伐採が深く関わっていると考えられている。

2 森林伐採との関わり
天城山系の豊かなブナ林は、手つかずの「原始林」ではなく、実は江戸時代の激しい森林伐採(人為的な介入)によってリセットされ、生まれ変わった森林といえる。

(1)江戸の街を支えた「天城御用炭」
当時、人口100万人を超える大都市・江戸では膨大な燃料(木炭)が必要とされており、天城山はその一大生産拠点(天城御用炭)として機能していた。そのため、長期にわたり大規模な炭焼き用の伐採が繰り返された。


(2) 幕府の「七木制」によるブナの生存
幕府は森林資源を管理するため、建築資材として価値の高いスギ、ヒノキ、マツなど7種類の有用樹種を勝手に切ることを禁じる「七木制(しちぼくせい)」という厳しいルールを設けたが、一方で、建築材に向かないブナなどの雑木は、炭の原料(炭材)として激しく伐採された。
(3)「はげ山」状態からのブナの一斉更新
江戸時代末期(幕末)になると、過剰な伐採によって天城山の立木密度は極めて低くなり、一部は「はげ山」に近いスカスカの疎林状態にまで資源が枯渇したことが古文書等に記されている。しかし、この「遮るものがない、日当たりの良い空間が一気に広がったこと」が、ブナにとっては大チャンスとなった。
・一斉発芽:明るくなった林床(地面)にブナの種が一斉に芽吹いた。
・急速な成長:ライバルとなる他の高木が切り尽くされていたため、ブナの稚樹たちが一斉に、かつ急速に成長することができた。
天城山の八丁池周辺などに残る古い巨大なブナには、「地面に近い低い位置から横に大きく枝が広がっている」という特徴(樹形)が多く見られる。これは、彼らが若かった幕末期、周りに光を遮る木が全くないオープンな環境で、のびのびと太陽光を浴びて育った歴史的な証拠(過去の森林破壊の跡)とされている。このように、人間による「過剰な伐採」という破壊行為が、結果として現在の広大なブナ林へと世代交代させる引き金となったのは、非常に興味深い事例といえる。
3 天城のブナ林更新のための対策
天城山系のブナ林は、ニホンジカの急増によるスズタケの全滅や地面の露出、実生の食害 により、次世代が全く育たない深刻な「更新不全」に直面している。このまま現在の老齢なブナ(幕末〜明治期に一斉更新したもの)が寿命を迎えると、森林そのものが崩壊する恐れがあり、この危機を乗り越え、ブナ林を未来へ維持していくためには、人為的な防護と個体数管理を組み合わせた「多角的なアプローチ」が必要になる。
(1)物理的な防護柵(植生保護ネット)の設置
シカを物理的にシャットアウトし、実生や下層植生が安全に育つエリアを確保。
(2) ニホンジカの個体数管理(捕獲・調整)
保護柵の効果を高めるためには、天城山系に生息するシカの絶対数を減らす(適正管理する)ことが不可欠。
(3)土壌の保全と下層植生の回復
スズタケが消えたことで、雨によって林床の土壌が流出しやすくなっている。土留め・ヤシ繊維ネットの敷設や、不嗜好性(シカが嫌う)植物のモニタリングも必要。
(4) 地域・行政・研究機関の「協働体制」
天城山の多くは国立公園や国有林(保護林)に指定されているため、枠組みを超えた連携体制の構築が必要。静岡県、環境省、林野庁、大学の研究者、そして地元の自然保護団体やボランティアが一体となった「天城山自然再生協議会」のような組織をベースに、長期的なモニタリングと対策を継続する。






































































