山の記憶

山歩きで感じたこと、ダウン症の息子との散策を徒然に

天城山系のブナ林の形成

 先の記事『天城のブナと東北のブナ』では、太平洋型ブナの特徴や、天城山系においては後に続く幼樹が存在しないため、将来的に「ブナ・ヒメシャラ林」の森が維持できなくなる恐れがあることを見てきた。

八丁池西側の下り行幸歩道のブナ

 講座の中で、現在の伊豆国有林の大部分は江戸時代では「御林(おはやし)」と呼ばれる直轄林で、天城御林に対してはマツ、スギ、ヒノキ、サワラ、ケヤキ、クス、カシの七木が公用以外での伐採を禁じられ、その後これにモミ、ツガを加えた「天城九木」が幕府により厳しく管理されたことが話された。このことは天城山系のブナ林の形成にどう関わったのだろうか、以下にまとめる。

(一部[Gemini]利用)

下り八丁池歩道のブナ

1 天城山系ブナ林の形成時期

 伊豆天城山のブナ林の大半は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期にかけて形成(更新)された。天城山系全体のブナの年輪解析調査では、確認される多くのブナの樹木は、幕末から明治期にかけて一斉に世代交代(更新)したものであり、広大なブナ林が形成された背景には、江戸時代に行われた製炭などの森林伐採が深く関わっていると考えられている。

手引頭のタコブナ

2 森林伐採との関わり

 天城山系の豊かなブナ林は、手つかずの「原始林」ではなく、実は江戸時代の激しい森林伐採(人為的な介入)によってリセットされ、生まれ変わった森林といえる。

大ブナ峠のブナ

(1)江戸の街を支えた「天城御用炭」

 当時、人口100万人を超える大都市・江戸では膨大な燃料(木炭)が必要とされており、天城山はその一大生産拠点(天城御用炭)として機能していた。そのため、長期にわたり大規模な炭焼き用の伐採が繰り返された。

御料林時代の伊豆での製炭の様子

森に残る炭窯の痕跡

(2) 幕府の「七木制」によるブナの生存

 幕府は森林資源を管理するため、建築資材として価値の高いスギ、ヒノキ、マツなど7種類の有用樹種を勝手に切ることを禁じる「七木制(しちぼくせい)」という厳しいルールを設けたが、一方で、建築材に向かないブナなどの雑木は、炭の原料(炭材)として激しく伐採された。

(3)「はげ山」状態からのブナの一斉更新

 江戸時代末期(幕末)になると、過剰な伐採によって天城山の立木密度は極めて低くなり、一部は「はげ山」に近いスカスカの疎林状態にまで資源が枯渇したことが古文書等に記されている。しかし、この「遮るものがない、日当たりの良い空間が一気に広がったこと」が、ブナにとっては大チャンスとなった。

一斉発芽:明るくなった林床(地面)にブナの種が一斉に芽吹いた。
急速な成長:ライバルとなる他の高木が切り尽くされていたため、ブナの稚樹たちが一斉に、かつ急速に成長することができた。

 天城山の八丁池周辺などに残る古い巨大なブナには、「地面に近い低い位置から横に大きく枝が広がっている」という特徴(樹形)が多く見られる。これは、彼らが若かった幕末期、周りに光を遮る木が全くないオープンな環境で、のびのびと太陽光を浴びて育った歴史的な証拠(過去の森林破壊の跡)とされている。このように、人間による「過剰な伐採」という破壊行為が、結果として現在の広大なブナ林へと世代交代させる引き金となったのは、非常に興味深い事例といえる。

3 天城のブナ林更新のための対策

 天城山系のブナ林は、ニホンジカの急増によるスズタケの全滅や地面の露出、実生の食害 により、次世代が全く育たない深刻な「更新不全」に直面している。このまま現在の老齢なブナ(幕末〜明治期に一斉更新したもの)が寿命を迎えると、森林そのものが崩壊する恐れがあり、この危機を乗り越え、ブナ林を未来へ維持していくためには、人為的な防護と個体数管理を組み合わせた「多角的なアプローチ」が必要になる。

(1)物理的な防護柵(植生保護ネット)の設置

 シカを物理的にシャットアウトし、実生や下層植生が安全に育つエリアを確保。

(2) ニホンジカの個体数管理(捕獲・調整)

 保護柵の効果を高めるためには、天城山系に生息するシカの絶対数を減らす(適正管理する)ことが不可欠。

(3)土壌の保全と下層植生の回復

 スズタケが消えたことで、雨によって林床の土壌が流出しやすくなっている。土留め・ヤシ繊維ネットの敷設や、不嗜好性(シカが嫌う)植物のモニタリングも必要。

(4) 地域・行政・研究機関の「協働体制」

 天城山の多くは国立公園や国有林(保護林)に指定されているため、枠組みを超えた連携体制の構築が必要。静岡県、環境省、林野庁、大学の研究者、そして地元の自然保護団体やボランティアが一体となった「天城山自然再生協議会」のような組織をベースに、長期的なモニタリングと対策を継続する。

天城のブナと東北のブナ

手引頭のブナ林

 4月から受講している静岡大学・読売新聞連続市民講座2026「地図でひらく静岡と伊豆半島」の第3回は「植生図とともにみる伊豆半島の生態系」講師・佐々木惠子氏(美しい伊豆創造センタージオパーク推進部 研究員)で、伊豆植生の潜在的な姿と現在の姿(自然植生・二次自然)について語られた。その中で関心を持ったことは、やはり天城山系を中心としたブナ林のことだった。
 昔よく東北の山々を歩いていると、居合わせた東北の岳人たちは必ず「オラ方(ほ)のブナは日本一」と自慢し、「なーに、伊豆天城のブナも負けちゃぁいんだよ」と言い返すと、温暖な静岡・伊豆にブナ林があること自体が信じられないような顔をしたものだった。しかし、よく見てみると世界自然遺産・白神山地に代表される東北ことに日本海側のブナと、我が静岡・天城のブナとは少し様相が異なることは感じていた。今回の講座では、そのブナの分布域は大きく日本海側と太平洋側の二つに分けることができ、遺伝構造に違いが見られることを知った。

日本海型と太平洋型のブナ林

 上図は全国に分布する23のブナ林で自然淘汰に中立な遺伝マーカー(核マイクロサテライト)を用いて遺伝的構造を調べた結果を示している。

月山六十里街道のブナの道

手引頭(伊豆山稜線歩道)のタコブナ

下り行幸歩道のブナ

下り八丁池歩道のブナ

 具体的には次のような違いが挙げられる。

1.葉の大きさと形

[東北のブナ]雪が多く水分が豊富な環境に適応しているため、葉は比較的大きく、薄い
[天城のブナ]冬季の乾燥や強い日差しに適応しており、水分蒸発を防ぐために葉は小さく、厚い(コハブナとも呼ばれる)傾向がある

2.樹形(木の形)

[東北のブナ]日本海側の豪雪地帯では雪の重みに耐えるため、幹が非常にまっすぐ上に伸びるのが特徴
[天城のブナ]雪の少ない太平洋型気候のため、低い位置から枝分かれしやすく、ずんぐりとした樹形になることが多い

3.生態と群落

[東北のブナ]白神山地のように、豪雪地帯ではブナだけの大規模な「純林」を形成しやすい
[天城のブナ]天城山などの太平洋型のブナ林では、ブナ以外の多様な樹種(ヒメシャラやアカガシなど)が混ざり、ササが繁茂する環境で生育する

4.遺伝的な違い 

日本列島のブナは氷河期以降に分布を広げた歴史があり、静岡県内のブナを調査した結果、遺伝的には4つの異なる地域グループ(葉緑体DNAのタイプ)が存在することが確認されている(静岡県西部と中部から東部、伊豆とでは大井川を境にして明瞭な境界線が引かれる)このため、遠く離れた地域のブナの苗を移動させて植えると、現地の環境に適応できず生育不良を起こすなどの遺伝的撹乱が懸念される

ブナと地球温暖化

 日本海ブナと太平洋型ブナの遺伝構造の違いは遠い将来には異なる種に進化する可能性があることも指摘された。しかし、一方では地球温暖化によって日本のブナ自体が種の存続の危機にあることも事実だ。
 そうした地球温暖化による影響とは別に、シカの食害による直接的な影響も見られる。2000年代には5,000頭以下であったシカが、2020年代には4倍以上の20,000頭以上に増加。ブナ・ヒメシャラが優占する天城山系のブナ林では幹径70cmほどの大木が多いが、本来なら次世代を担うはずの稚樹は全く見られず、また下層植生が殆どなく落葉だけが広がる光景になっている。1990年代の天城山系は林床にスズタケが密生していたというが現在はその面影すらなくなり、ブナ実生も食べ尽くされ、このままでは現在の巨木や成木が寿命を迎えた際、後に続く若い木が存在しないため、将来的にこの珍しい「ブナ・ヒメシャラ林」の構造が維持できなくなる恐れが指摘されている。
 太平洋型ブナ林での実生や若木の減少については以下ブログに詳しい。

ameblo.jp そのスズタケの減退が始まった頃の天城・皮子平について書いたことがあった。

◆  ◆  ◆

 五月十九日、本年度最初の定例山行「皮子平〜万二郎岳」が行われました。天気に恵まれ、ブナやヒメシャラの新緑、シャクナゲの花の見事さと、時季にもかなった良い山行でした。皮子平から小岳までは、比較的静かな心落ち着く山歩きでしたが、万三郎、万二郎ではさすがに人が溢れ、山頂でゆっくりすることも侭なりませんでした。深田百名山のベストシーズンの山では致し方ないでしょうか。登山道は深くえぐられ、脇にまた別の踏み跡がついている箇所もありました。この山もオーバーユース気味であることは、間違いないようです。それだけに皮子平のゆったりとした雰囲気は一層心に残るものでした。ここでは極相林であるブナの林の下には、ヒメシャラの若木だけが勢いよく育っていました。長い時間をかけた遷移の過程にあるようです。
 雑誌『岳人』に日野東氏が「花のはなし、不思議な野花」を連載しています。その中で、「あるシャクナゲ群生林の中にある山小屋では、終わりかけた花をすべて摘み取ってしまう。果実ができなければ翌年も同じように花を咲かせるからだ。その努力には感心するが、長いスパンで考えたとき、世代交代に影響があることは想像できる。」と書かれていました。
 人間は勝手なものですから、毎年同じように花が咲くことを期待し、かつては無用な木とされていたブナを、自然の代表のようにありがたがる。自然保護というと、何か現状をそのまま守り維持することのように聞こえますが、長い時間の中で移り変わっていくことも、また自然の本来の姿なのではないでしょうか。そもそも、人間自体、地球の〝極相〟であり続ける保証はないのですから。

(2002年6月『やまびこ』No.63)

 

takobo-gen.hatenablog.com

 

Ryoウォーク「日本平・三保松原」

日本平から駿河湾を望む

5月某日、Ryo、Chiと一緒に日本平・三保松原に行く。

残念ながら富士山は見えず(日本平夢テラスにて)

日本平夢テラス内の展示もなかなか面白いのに、Ryoは素通りして、どんどんと外の展望台へ。

夢テラスの展望台を一周(右端の山は竜爪山)

外のベンチで一服

当初は久能山東照宮へと考えていたが、他の人と接近するロープウェイ乗車は今日は無理そうな様子で、三保松原へと目的地変更。

日本平と三保半島

三保松原は世界文化遺産・富士山の構成資産のひとつ。外人観光客も多いが人混みとなる程ではなく、清々とウォークできる。

羽衣の松で知られる三保松原

駿河湾の先に伊豆半島を望む(左端)

神々の上陸場所「羽車神社」の祠

段々と調子が出てきた

その後、御穂神社までの「神の道」を往復、となかなかの充実ウォークとなった。

松と聖地

この広大な松林は、どのようにしてでき、なぜ伝承や信仰の場所となったのだろうか。

日本では松は、常緑で冬でも緑を絶やさない神の宿る神聖な木とされ、門松や正月飾りをはじめ、婚礼、誕生の祝い事に欠かせません。中国においても縁起が良く、清く高い品格の意味を持った長寿の象徴です。
三保半島は、大崩海岸や安倍川河口からの砂礫(砂と小石)と、有度山(日本平)南面の海食崖から削り取られた砂礫が、波の影響により沿岸に沿って東に運ばれ、駒越沖に北東方向に細長く突起状に成長してできた半島です。このような砂礫の移動により形成された地形を砂嘴《さす》といい、かつて三保の砂嘴は1年に3mほど成長していました。
古代中国の思想の影響により、富士山は蓬莱山とも呼ばれ仙人が住むと考えられました。その仙人の住む富士山と人間の世界とを結びつける「架け橋」のような存在が三保松原でした。三保松原は常に富士山と共に描かれ、富士山へ向かう入り口と認識されてきました。
古くから富士山を望む聖地であった三保松原は、天女の伝説によって美しく語られ、昔から人々に親しまれ全国的に有名でした。
江戸時代の三保松原は、御穂神社の領地として徳川家康をはじめとした歴代の将軍によって庇護を受け、御穂神社が所有する松並木の伐採は禁じられていました。明治時代になると、御穂神社の朱印地は一般に払い下げられ、同時に売却を目的に多くの松が伐採されました。明治31年(1898)第一次森林法により保安林に指定され、さらに大正11年(1922)日本初の「名勝」に指定され保全されるようになりました。しかし、第二次世界大戦の戦時下及び戦後には、燃料や製塩のために大量の松が伐採され、松林は激減しました。それでも、地元では伐採した後に幼松を植えるなどして、松林を維持する努力を続けたことで、今日まで松林が残されることになりました。

「三保松原」(https://miho-no-matsubara.jp)より

御穂神社とは?
静岡県静岡市清水区三保にある、羽衣伝説ゆかりの「三保大明神」として知られる神社で、駿河国三宮にして世界文化遺産。御祭神として大国主・大己貴命(おおあなむちのみこと)として知られる三穂津彦命(みほつひこのみこと)と、三穂津姫命(みほつひめのみこと)を祀る。一説には大国主ゆかりの出雲国の御穂埼(現:美保関)から遷座したとも伝わるが定かではない。参道である約500mの松並木は「神の道」と言われ、その先に「羽衣の松」がある。毎年11月1日に、舞殿にて羽衣の舞が奉納される例祭が、2月14日~15日にかけては、豊作祈願の「筒粥祭(つつかゆさい)」が執り行われる。

「静岡市観光ガイド」(https://www.surugawan.net/guide/60.html)より

野本寛一はクロマツの持つ神性について次のように述べる。

折口信夫は、沖縄県八重山地方のアカマタ・クロマタ・マユンガナシ・アンガマなどをヒントとして海の彼方の常世から来臨する「まれびと」を想定し、「翁の発生」を考えた。高砂の松の樹蔭に立つ尉と姥は、石垣島のアンガマに通じ、それは、海の彼方から人の世を祝福するためにやって来たまれびとが、松の老樹を目標として上陸した姿でもあった。さらに観念化すれば、不可視の神が、クロマツの古木を依り代としてそこに顕現したことにもなる。海辺の老松が海の彼方からやって来る神の依り代になるという信仰論理の基層には、船人や漁民が、海辺の古木・巨木を、航行・碇泊・舟位確定の指標にするという民俗が生きていたのである。海辺の松の古木が守られてきた理由は、それが、単に燃料としての松葉や松露を恵んでくれるという即物的な面にとどまることなく、深く信仰世界にかかわっていたからである。そこには、人 ⇄ クロマツ ⇄ 神といった多層の構造が存在したからである。このことは、三保の松原の羽衣の松によって証明できる。

野本寛一『共生のフォークロア』「クロマツの民俗」

美保関

この海の彼方からやって来た神々(人々)については、「御穂神社とは?」に記されるようにその祭神と地名から出雲・美保関との関わりも想起されるが、この島根半島東端は山が海岸に迫る地形で、三保松原の浜とは随分と異なるようだ。出雲族そのものが直接移動してきたかは不明だが、出雲を拠点とした海洋ネットワークを持つ人々や海人族が、駿河湾の三保にやってきた名残は感じられる。

伊豆山稜線歩道・手引頭のブナ

伊豆山稜線歩道(天城ゆうゆうの森〜仁科峠)

天城ゆうゆうの森(8:35)…二本杉峠(9:47〜55)…滑沢峠(10:20)…三蓋山(11:03)…つげ峠(11:30)…P1014・手引頭(12:00〜25)…猫越岳(13:55)…仁科峠(14:50)

手引頭のタコブナ(2024.5.26)

大ブナ峠(通称・P1014西)のブナ巨木(2024.5.26)

所属会の5月定例山行は、伊豆山稜線歩道の二本杉峠から仁科峠を歩く。ハイライトは、昼食場所としたP1014「手引頭」周辺のブナ林、広々としたいかにも天城の森らしい雰囲気のある場所だ。山頂近くの大シャクナゲの下部は既に花を落としていたが、頭部はまだ可憐なピンクの花を十分に残していた。山頂に根を張るこの森の主のようなタコブナは、何本もの太い枝を横に長く伸ばし、威厳に満ちた存在感を示していた。いずれも天城山系随一の巨木とされている。この伊豆山稜線歩道沿いの森は、百名山の天城山周辺の喧騒に比べだいぶ静かなところも良いと思った。

P1014「手引頭」の山名板(2024.5.26)

ところで、P1014が「手引頭」と呼ばれるようになったのはいつ頃からなのだろうか。山行にあたって私がWEBで見た範囲では、『趣味人倶楽部』というSNSサイトで伊豆在住の[Yさん]が2008年5月にガイドブックに載らない穴場として紹介しており、「手引頭」の山名板が写る写真も掲げられていた。

もう四半世紀以上も前に、今回と逆コースの仁科峠から天城峠を歩いたことがあったが、P1014を踏み同じタコブナを見たのかどうも記憶が定かでない。例えば山と高原地図『伊豆』1996年版では、現在のツゲ峠から南面をトラバースする破線道ではなく、尾根通しで1014標高点の僅か南を通るルートが示されているし、2000年発行のヤマケイ・アルペンガイド『駿遠・伊豆の山』に載る「天城峠から伊豆山稜線歩道」も同様であるから、以前の伊豆山稜線歩道はここを通っていたのだと思うが「手引頭」の山名記載はない(いずれも調査執筆者は真辺征一郎氏)。またガイド文でツゲ峠付近の「巨大なブナの原生林」には触れているが、大シャクナゲやタコブナについては触れられていない。「手引頭(てびきがしら)」という名はいったい何に由来しているのだろうか、何やら雲霧の一党みたいだな・・・と思った。

『山と高原地図/伊豆』1996年版に載るツゲ峠〜猫越峠間のルート

伊豆在住の[Yさん](趣味人倶楽部)に尋ねてみた。

[takobo]
このP1014を「手引頭」と称すようになったのはいつ頃からでしょうか? また山名の謂れはどこからでしょうか? ご存知でしたらご教示をお願い致します。
四半世紀も昔、子どもを連れて来たことがありましたが、その頃はまだ手引頭とは呼ばれていなかったように思いました。

[Yさん]
30年以上前から伊豆の山を歩いてます。
当時、伊豆の山は山道以外は猛烈な笹に覆われていて、道以外の藪を歩くのは困難でした。
手引頭を知ったのは30年前の「伊豆 天城山」(日地出版)の地図に記載されてたからです。ですから山名由来については不明です。
当時、猛烈な笹漕ぎをしないと手引頭の山頂に登れませんでした。
ですから山名は一般の方々には知られてなかったと思います。
笹が枯れて歩きやすくなった頃、某写真家が石楠花や大ブナを紹介したので、これをきっかけに名前が知れ渡ったのだと思います。

[takobo]
私がWEB上で閲覧した限りでは、Yさんの2008年5月の投稿が一番古い「手引頭」の掲載でしたので、質問させていただきました。
手元にあった1996年版の『山と高原地図・伊豆』や2000年発刊のアルペンガイド「駿遠・伊豆の山」では、ツゲ峠から猫越峠が尾根通しのルートで示されていますので、かつての伊豆山稜線歩道はP1014近くを通っていたのかなと思いました。もっとも藪漕ぎをした記憶はありませんので、違うのかなぁ・・・

[Yさん]
手引頭付近の山稜線の笹藪は2002年位にはほぼなくなり、尾根を歩けるようになりました。今はアセビの藪で歩きにくいです。
2000年発行のアルペンガイド(私も持ってます)に記載されてるツゲ峠から猫越峠に向かう歩道のルートは間違ってます。
2万5千分の1の地形図を丸写ししただけなんです。2万5千分の1の地形図は町境の印に歩道ルート付け足した、いい加減なものでした。
山稜線歩道は猫越峠からツゲ峠まで標高960mの等高線に沿ってしっかりした歩道になってます。尾根道ではありません。ですからもともと藪はありませんので貴方の記憶は間違ってませんよ。もし、藪漕ぎせずに尾根を歩いたのなら笹が枯れた2002年以降になります。

腑に落ちた。「手引頭」のタコブナと大シャクナゲは、やはり今回が初見だったようだ。

(2024年6月)

以下は、四半世紀以上前の山行記。

ブナに囲まれた散歩道

 伊豆山稜線歩道は、天城湯ヶ島町の天城峠から西に向かい町境の稜線上を船原峠まで北上、さらに西伊豆スカイラインに沿って修禅寺町の達磨山、金冠山まで続いている道だ。今回は湯ヶ島町の温泉会館に車を置き、タクシーで持越林道を仁科峠まで上がり、ここから天城峠を目指した。天城湯ヶ島町は来年「植樹祭」が開催されるようで、これにあわせ西伊豆スカイラインとつながる広い道路の建設が山中で進んでいる。

「“植樹祭”のために木を切って道路を造るんだから変な話だよね」

とはタクシーの運転手の弁。まさに同感。船原峠までは比較的静寂だったこの山稜線も大きく変るのだろう。

 工事用の車両が動く脇から登山道に入る。スズタケの中の道を猫越岳へ緩やかに登る。小一時間程で展望台に着く。暖かな日差しと風もない天気のせいか霞んではいるが、北に富士山が望む。冠雪は、山頂付近にひだのように僅かに残るだけで、数週間前よりかなり少ない。すぐ下には天城牧場の赤い屋根が見えるが牛の姿はなかった。西に目をやると駿河湾、宇久須港に入る漁船だろうか小さく見える。さらにその先には御前崎が霞んで見え、目を移していくと南アルプス主稜線の山々も遠望できる。

「あのあたりが島田だね」

などと話しながら小休止する。僅かに下った所に火口湖があったが、水はほとんどなく小さな泥沼のようだった。二等三角点を過ぎ猫越峠へ緩やかに下る。

 後はもうほとんど平らな道が続く。幅は並んで歩けるほど広く、良く整備されていて、まさに“歩道”である。両側はツゲとブナの林だ。五、六メートルも横に太い枝を延ばしたブナの大木に驚かされる。展望はないが、落葉が敷き詰められた明るい平坦な道は、登山というより散歩という感じ。所々に残った紅葉がアクセントを付けていた。

ツゲ峠のブナに登る(1998.11.14)

 ツゲ峠に昼少し過ぎ到着、大休止で昼食を摂る。近くのブナの林の中で木登りを始めた子供を真似て、大人達もやや重くなった身を持て余しながら、しばし童心に帰る。滑沢峠を過ぎると植林も目立つようになった。ここまでに会った登山者は、反対方向からの単独者2人のみ。静かな山行だ。二本杉峠は旧の天城峠である。今、放映中の徳川慶喜の時代、開港をめぐってハリスや吉田松陰らが越えた峠だ。古い休憩舎が建っていた。さらに天城峠まで、晩秋の午後の陽に追われるように足を早めた。天城トンネルバス停から湯ヶ島に戻り、汗を流し帰路に着いた。

(1998年11月14日)

 

大井川下流域での流路変遷

 コロナ禍によって半年近く休止していたSHCの活動は、9月のおはようハイクより再開される。その初弾は、3回シリーズで行われる「大津谷川・栃山川を駿河湾まで歩こう」(Kdo企画)のリバーサイドウォークだ。このコースは、だいぶ以前の会報でIKさんの絵本『かわ』(かこさとし 画・文)に寄せた一文の中で見たが、川を溯るのとは逆に、河口へと下ってみることにも様々な発見があることと思い、愉しみなことだ。

栃山川水系

 歩くにあたり『やまびこ』276号(本年4月号)にSmaさんが寄せていた「栃山川って?」を読み返してみた。ここでは栃山川水系を構成する五河川の主に近代に入ってからの利水、治水のあらましが記されていて参考になった。この文に添付されていた栃山川水系の地図や、さらに詳しく地理院地図を眺めて感じることは、栃山川水系や瀬戸川水系の各河川が複雑に絡まり合って、志太平野に網の目のように張り巡らされていることだ。先人の努力によって「運河・水路が開削され、農地への灌漑や水運により志太平野に大きな恵みを与えてき」(「栃山川って?」)たのだ。
 例えば、栃山川の前身である大津谷川は、ネスレ工場前で大井川に合流するのだが、その手前で栃山川として分流し、東光寺谷川と合流したり、逆に黒石川や木屋川を分流させたりしながら、大井川河口の北側で駿河湾に注がれる。こうした複雑な流れは、人工的な用水路として開かれてきた面が当然あるわけだが、大井川の下流域における流路変遷に関わる面もないだろうか。また、千葉山山域から南に流れ出している伊太、静居寺、大津、東光寺の各谷川が最終的には全て栃山川(木屋川)として纏まっていくことも興味深い。

大井川下流域の標高の変化(「地理院地図」より作成)

 島田付近での大井川流路が、現在のように向谷水神山下から南進し、東海道本線鉄橋の辺りで牧ノ原台地にぶつかり東へと転じるようになったのは、天正の瀬替え(1590年)により牛尾山が開削されて以降のことであるが、慶長九年(1604年)の大井川氾濫により旧流路が復活し、島田宿が流され北側の山沿いに仮東海道が設けられたことは、この間の「慶長の仮東海道」(№277・279)の中で記してきた。この「慶長の仮東海道」探索最中に地理院地図を見るにつれ感じたことの一つに、島田地域の標高が他の大井川下流域市町に比べかなり高いことがある。島田地域では扇状地への出口に当たる神座北端が海抜約100m、栃山川起点で同45mであるのに対し、例えば瀬戸川では扇の要の堀之内矢崎橋が57m、焼津市境の保福島豊田橋が15m、葉梨川の谷では葉梨小北側が23m、朝比奈川との合流点辺り(下当間)で10m、朝比奈川では新東名IC近くの岡部町村良(むらら)で22m、岡部川ではだいぶ谷深く入った感のする道の駅「宇津ノ谷峠」で50m、朝比奈川合流点の若宮八幡宮下で18mとなる。
 これは大井川の運ぶ土砂量の多さと共に、氾濫の度に狭い扇状地(白岩寺山下の大津谷川・伊太谷川合流点から初倉谷口の弁天山までは僅か2km)である島田地域へそれを堆積させていった様子が窺われる。また、高草山塊の南麓が万葉時代では深い入江地形となった低湿地であったことも想像できる。さらに標高の変化を見て気付くことは、島田の谷口から広い平野部へと出て以降、標高はきれいに等間隔に真東に変化し海岸線に平行した形となっている。志太平野が大井川による沖積平野である証である。谷口から解き放たれた大井川は、北の高草山塊と南の牧ノ原台地の間を自由に流れていた時代があったことが想像できる。それは地名からも推し量ることができる。高洲、大洲の「中洲」を示す地名。青島、前島、大島、祢宜島など「島」を示す地名。さらに、残存島嶼(※下流域の流路変遷によりかつて島であった部分がとり残され、流れから遠ざかったもの)の典型として、青島中西側に残る岩城山、本宮山などを挙げることができる(ここもかつてのおはようハイクで訪れた)。
 それでは、大井川が白岩寺山を東に離れて志太平野に出ていた頃、実際どこをどう流れたのだろうか。静岡県誌によると、沖積平野が堺・栃山・木屋三川の川口付近で特に突出して、ちょうど大井河口が造っている凸出砂州とよく似ていることから考えると、これら三川の流路は、現河道以前の最も有力な河道であると述べる。実際地形図を見てみれば、大井川の現河口と和田浜付近の海岸線の突出形が似通っていることに気付く。浅井治平(明治24年4月旧金谷町生、文学博士)は『大井川とその周辺 ―交通路の変遷と渡渉制―』(1972・4・10参版)の中で、志太平野に出た後の大井川の三流路を示している。

大井川下流平野の等高線並びに微高地分布図

Ⅰ流路(旧流路)

 鎌塚・権現原を削った大井川の刎ね返りは、道悦島から岸の北方の侵食崖を造り、栃山川と大井川の間に細島微高地を形成した。この微高地が栃山川に終る北側は、上青島の北の崖と相対して旧大井川の流路を示し、瀬戸の孤立した丘の二つ三つは大井川の分流点に当っている。北方追分、瀬戸新屋に流れるものは藤枝駅北方の前島をへて瀬戸川に流入しているように見える。孤立丘陵以東は紡錘形の青島微高地となり、藤枝駅の南方を東東北にのびている。その東にかなり明瞭な高柳微高地があって、青島微高地との間に黒石川源流の一枝が、一条の低地を造って界となっている。高柳微高地の東には、大住の北から小川をへて会下島(えげのじま)まで、自然堤防らしい微高地が、だいたい黒石川にそってつづいている。これを小川微高地と呼ぼう。
(中略)これを旧流路と仮定して、この等高線の形状から察すると、その堆積物は和田浜の北部石津付近が中心となるので、県誌の言う旧河口より北に偏し、実際の堆積物は半ば焼津沿岸と共に削り去られたと解すべきである。
 もう一つここが大井川の旧流路であったろうという有力な証拠がある。(中略)駿河国絵図(一七〇二年)で見ると黒石川が兵太夫の西で栃山川と結びついて、立派に大井川の分流となっている。
 元禄の頃でさえも栃山川と黒石川とが結びついていたほどであるから、そのずっと以前に大井川が島田から真東に流れていた有史以前には、当然黒石川が中心となって、大住から中側島と小川微高地間の低地を流れ、前にのべた五米の等高線を造るような堆積を行なったものと思われる。この付近に島のつく地名の多いのは、河流中の中州や自然堤防に自然に名付けたもので、もとの大井川は多くの中州をその流路の中に残したが、高柳微高地などもその一つで、自分の堆積した砂礫のためにその流路を妨げられ、他の流れ易い方向を求めて、栃山川を本流とするようになったものである。
 こうして黒石川は徳川の初政頃から栃山川との縁がうすくなって、もとの河道もいつとはなしに埋って田畑や宅地となり、今は所々に池や貯水池を見る以外にその址を辿ることさえ困難な有様となった。

 

 

黒石川付近の元禄国絵図

Ⅱ流路(旧流路)

 栃山川は最初は現在の木屋川の流路をとって東流したらしく、北方に蔵島微高地を堆積しながら、右岸に一色・田尻の微高地を形成し、後に南流して栃山川の流路に入り、右岸に堺川を挿む下小杉西方の微高地から、大島にかけての微高地を堆積した。その一部は静浜飛行場となったり、耕地となったりして、元の地形はすっかり変化させられた。やや上流部の上新田・中島以西の上小杉・土瑞微高地は最も著しい自然堤防で、広範囲に茶畑に広がっている。これはさらに西にのびて、善左衛門の茶畑を中心とする大洲微高地となっている。この一連の微高地は、かって長い間駿遠の国境だったところで、向榛原と旧志太郡との境界をなし、明治一二年までは、この以西は遠江国榛原郡に属していたのである。
 以上の事情から考えると、わが国の歴史時代の初期には、大井川の主流は現在の栃山川流路、すなわちⅡ流路を流れていたものらしく、その堆積は西部は白金微高地まで及んだものと思われる。

Ⅲ流路(現流路)

 栃山川を主流として大井川が流れていた頃に、すでにその一分流は現在のⅢ流路を流れており、洪水の甚しい時には、源助南方の八番付近から田中川や地蔵守川の流路をへて海に入り、ある時は細島と大洲との間を、ほぼ今日の芝地川の流路を取って栃山川に注いだことも、空中写真の示唆する所である。
 大井川の記録で最古のものと考えられるのは、日本書紀仁徳天皇六二年(三七四)の条にあり、(中略)Ⅲ流路も相当古くからあったことがわかる。
 今の谷口橋南詰の西にある弁天山に祀られる神社で、この付近で流木の大樹を発見し、その下流の船木で造船したと解しているのであるが、果してこの辺で造られた外洋を航海し得る船が、当時の大井川を下って、無事に海に浮び、難波津まで到着し得たか否か。実際問題としては紀伊国屋文左衛門の和田港などと考え合せると、なお検討を要する問題である。
 前に挙げた飛田堤防の築造が宝亀一〇年(七七九)の大洪水の結果とすればこれによって大井川のⅢ流路は南方に圧迫されて強力となり、一部は谷口原の東縁を削って湯日川の流路に注ぎ、大幡辺から横須賀街道にそって大井川から分れた川と合流して、能満寺丘陵の東南崖を削って西流し、坂口谷川の谷をへて細江付近の海に注いだ時代もあったようである。

 現在、大井川用水路として活用されている栃山川水系が、大井川の本流となっていた時代があったのだ。今回のリバーサイドウォークでは、用水路として営々と整えられてきた歴史と共に、志太平野の中を遮るものなく高草山の南麓まで幾筋もの流れとなって海に繋がる大井川のかつての姿を想像してみるのも愉しい。また、こうした経緯によって、この志太平野には地下水(伏流水)が豊富に流れていることも理解できる。
 さて、この大井川下流域での流路変遷こそが、古代からの東海道ルート変遷の一因となっているわけで、つまりは〝島田〟という地域がどうやって造られてきたかという問題なのだろうと思う。

(2020年9月記)

慶長の仮東海道を歩く

 4月の「緊急事態宣言」以降の約2カ月間、家からの発着を基本に歩いていた。体(てい)の良い散歩である。幸いに家から5分も歩けば千葉山から派生する尾根の端っこに取り付くから、使える時間やその日の気分によって自在にコースは変えられ、飽きることはなかった。この間、近隣の里山でも結構な賑わいを見せていた所があったようだが、尾川丁仏参道をはじめ散歩中の山道で人と行き交うことは稀だった。お蔭で少し気になっていた所の納得も幾つかでき、また付随して地域の地誌的、歴史的な事柄への興味も満たすことができた。『やまびこ』277号で紹介した「慶長の仮東海道」もその一つだった。その内、大津野田前の長谷川代官所跡から東光寺村を抜ける「東光寺道」を歩こうかなと6月の例会で呟いたところ、5人の方々が当日の朝、偶然にも顔を見せて下さった。今回の散歩のテーマは、「ブラタモリ」的な歩く愉しみ方を見つけたいと思ったのだが、どうだったろうか。

七兵衛原の一里塚跡

 「慶長の仮東海道」の経緯(いきさつ)と全体の概要は277号を参照して頂くこととして、今回は現二中裏山にあたる七兵衛原から歩き出した。現在は茶畑となっていて尾根の北側が国道一号線(旧バイパス)によって分断されているが、仮東海道は旗指・法幢寺東から入る小さな谷(金子沢)を上がり、国道の切通し辺りから七兵衛原に至っていたと思われる(国道に架かる歩道橋の地点)。歩道橋から七兵衛原の茶畑に出て最高地点(117m)の東側に塚状に盛られた所があり、仮東海道の一里塚跡と考えられている。正規の旧東海道では本通七丁目に一里塚跡の碑が建てられているが、七兵衛原の塚は仮東海道中でこれに相当することになる。七兵衛原から二中体育館裏に下りる道は結構な傾斜で、両側から深くえぐれた切通し状となっている。

長谷川代官所を中心とした元・元島田地区

 平地に下り、附島中、島四小北側の山裾を元島田方向に東進する。この辺りは片瀬といって、今は小さな用水路(伊太川)が流れているが、往時は大井川の最も北側の流れがここまで達していた。この裏山(143.2m四等三角点「野田」)の山頂は「大井の段」といって、慶長9(1604)年の洪水の際に大井大明神(大井神社)の祠を一時避難させた所。私が小学生の頃は、この小さな丘陵を越えて鵜田沢の池(現中央公園)までは遊びのテリトリーだったし、中学生の頃には、できたばかりの中央体育館(現ローズアリーナの前身)へ部活動で山を越えて通ったものだが、いったい野田山のどこを通ったのか今は思い出せない。

鵜田寺の薬師如来坐像

 元島田の北幼稚園の建つ辺りが、島田宿の代官所が現柳町(御陣屋稲荷)に移る(1616年)以前にあった場所。ここから仮東海道は、南ルートの「金谷沢道」と北ルートの「東光寺道」に分かれる。因みに御陣屋稲荷は、この野田代官所の屋敷神であった稲荷社を一緒に遷座したもの。野田の屋敷跡には祠だけが残され、地元の有志家が祀ってきたが、昭和18年、野田山南東の中腹に西野田の氏神「三﨑(みさき)稲荷」として遷座し現在に至っている。この「三﨑」地名は、突き出た場所「岬」地形から来たと考えられ、ここが大井川流れの畔であったことが窺われる。また、少し北に行った鵜田寺(野田薬師堂)は、758年創建と伝えられる島田で最も古い寺であるが、ここに安置されている薬師如来像(県指定文化財)は、日本霊異記によると、ある僧が鵜田の里から大井川を渡る際、河原の下から「我をとれ」という声が聞こえたために穴を掘ってみると薬師如来像が出てきたと記されている。この伝承も、この地の近くに大井川の流れがあったことと共に、古くは大津道が街道の一部として機能していたことを窺わせる。推定される天正の瀬替え(1590年)以前の中世東海道(鎌倉道)は、大津道を南下し現島田球場付近から瀬替え以後は大井川の河原となってしまった牧之原台地麓の鎌塚宿に通じていたらしい。仮東海道は、このルートの一部を利用したわけだ。

大谷の峠、ガードレールの下に仮東海道の道形が続く

 代官所から北上し東光寺道を辿る。供方(ともかた)橋(友形の渡し)を渡り、上野田から大谷を上り東光寺との峠となるT字路に出る。左に林道を行けば大草山から双子山へと続く大津東側の尾根、東光寺の集落には右へと下っていく。この峠の標高は104mで、白岩寺山から続く尾根の中で最も低い地点を越えている。かつての道は、T字路突き当たりのガードレールの間を下りていくもので道形も僅かに残っているが、今回は車道を東光寺集落へ下った。この道は今も国一の渋滞や事故の際には、東光寺インターからの迂回路として利用されている。東光寺公会堂より北にトトリ沢の谷に向かい入っていく。トトリ沢の入口右手には、七兵衛原と同様に一里塚跡が残っている。こちらは旧東海道では一里山(上青島)のそれに対応するものだろう。一里は約4キロメートルであるが、この日歩いた七兵衛原からトトリ沢まではGPSの計測では約4.5キロ、見学、休憩を含め約90分を要した。寄り道をしたり、全く完全な仮東海道のトレースではないだろうし、一里塚自体が正確に一里毎に設置されたものでもないだろうから、こんなものか。一里塚の全国的な整備を徳川家康が命じたのは慶長9年2月(1604年3月)で、実にその年秋の大井川氾濫によって、島田区間は仮東海道への移行を余儀なくされたことになる。因みに旧東海道では島田一里塚(七丁目)が江戸から52番目で約208キロということになるから、これは現在の国道一号線での距離とほぼ一致する。

トトリ沢入口の一里塚跡

 しばらくトトリ沢沿いに進んだ後、右手の尾根に向かって急傾斜の道を上がっていく。この道もまた七兵衛原の下りと同様に深い切通しが見られる。茶畑となった尾根に出しばらくして島田・藤枝市境となる変形十字路の清水(きよみず)峠(195m)に到着した。藤枝ライオンズクラブ設置の「双子山⇔駿河台」のハイキング道標と共に、「右 山道・左 東光寺・大津へ至る」と記された石の道標(いつのものかは不明)がひっそりと佇んでいた。これは谷稲葉側から登ってきての標であるから、反対側には東光寺側からのものもあったかもしれないが見つけることはできなかった。峠には茶屋も出て、仮東海道が廃された後も東光寺、大津方面からの清水寺詣の参道として賑わったらしい。また、正規の東海道の裏道としての利用や、生活道としての利用もあったことだろう。こうした往来を示すのは、例えば島田宿一丁目の町屋「稲葉屋」(造酒屋)桑原家は、明暦の頃(1655~57)、稲葉村から移住してきたと伝えられている。ここから谷稲葉南谷に下り、堀之内、音羽町、茶町を通って藤枝宿に合わさるのが東光寺道ということになる。千歳までは図上で残り約5.7キロ、一時間半も要せば充分着くだろうが、今回の散策は清水峠までとした。

清水峠の道標

 実際に東光寺道を歩いてみて感じることは、大津、東光寺、谷稲葉間の峠越えの意外な程の近さである。この東光寺道のルート取りの巧みさが、そのまま現国道一号線のルートとして活かされているわけである。また、地形図をいろいろと眺めている内に、大井川谷口としてある島田が大井川の土砂堆積によって標高が高くなっていること、さらに志太平野の広がりという点にも興味を惹かれたが、これは機会を改めることとする。仮東海道は、南ルートの金谷沢道、七兵衛原から西へ大鳥までのルート、さらに大井川を渡河し菊川宿までのルートと、まだ散策を楽しめそうだ。涼しくなってきたらこのシリーズを再開していきたいと思う。

(2020年7月記)

慶長の仮東海道

 本年1月の「おはようハイキング」で中央公園から矢倉山の道を歩いた。報告(『やまびこ』No.274)で、江戸初期慶長9(1604)年の大井川氾濫により壊滅的な被害を受けた島田宿が、大津野田前(元島田)に移転し、同時に東海道も洪水後11年間、北側の山沿いを通る仮街道が設けられたことを記した。この「慶長の仮東海道」について、島田宿・金谷宿史跡保存会刊行の『東海道 島田宿の歴史』(2016年・大塚淑夫)を拠り処として、もう少し詳しく紹介したい。

 慶長九年秋七月大井川は未曾有の大洪水で沿岸の村落被害絶大と云う状態であった。先ず神座村の如き平地を流亡し、室谷、笹ヶ窪などこの水害に依って山裾まで流し浚われて終わった。向谷の堤防は根底から決潰されたので、本流は伊太口から旗指、野田の南端を浸し、又一筋は水神山鼻から分離して現在の宿並を濁流の裡に没した。之が為に島田宿の駅家は悉く流亡し、難を駅北元島田へ避けたのである。白巖寺(白岩寺)山鼻に激した濁流は阿知ヶ谷村の山添を残したのみで道悦島・岸・細島・御請方面の地域は悉く濁中に没し惨状は古今絶した。斯くて慶長の晩年から修堤開始されたので、島田宿は元和元年から現地へ復帰し、河原へ掘立小屋を建てて駅次の御役を勤めることとなった……(後略)

(『島田・六合・大津・大長 郷土史講』1936年・紅林時次郎)

慶長9(1604)年の氾濫でA流路が復活した(『東海道 島田宿の歴史』より)

 この洪水により東海道は日坂宿から藤枝宿まで、北の山際を越える仮の街道が切り開かれた。遠州側の横岡から大井川を渡り、大鳥から元島田までは、北側の丘陵地を上り下りして仮の島田宿駅施設が設けられていた元島田の長谷川代官所(現島田北幼稚園付近)へ。その先は大谷の峠を越え東光寺村に下る「東光寺道」と、白岩寺山の鞍部(切通)を越えて金谷沢を阿知ヶ谷村に下る「金谷沢道」の二つのルートがあったという。これらのルートは、仮設の街道とはいえ急遽造られたものではなく、中世以来使われていた古い東海道を利用したものだったと思われる。

「或云。河西横岡村より大堰川(おおいがわ・大井川)を越て、大鳥(おおとり)に上り得川(とくがわ)・居守(いもり)・二の澤等の山路を経て、道人沢(どうにんさわ)より三社の上乾沢口(からさわぐち)に下り、それより初指原(はっさしばら)(是までことごとく伊太村の小地名なり)をすぎて山路にかかり、七兵衛原(しちべえばら)に到る。旧(ふるくは)ここに茶店あり。(いま西茶屋窪、東茶屋窪の小地名存せり。これこの遺跡なり云々)
 これより東に下り、また河原に出る。ここを片瀬(かたせ)という(大井川ここに流れるなり)。この所を渉りて西野田方薬師前(鵜田寺前)より北に入り、友形(ともかた・供方)の渡しを越し、神明山(しんめいやま)の麓を廻り、大谷(おおや)に入る(このところに焼餅窪(やきもちくぼ)の小地名あり。これは昔ここに茶屋ありし遺跡なり)。行くこと三、四町ばかりにして坂を越し、東光寺村(とうこうじむら)に至り、村中を南に過ぎて東の方登々理沢(ととりさわ)の谷に下り、また坂路(東光寺村、御林ある地を云うなり)を過ぎて峠に至り東に下る。このところ稲葉村南の谷と云へり。ここより南に向かいて堀の内村に出て獅子ヶ鼻を過ぎ、瀬戸川を渡り藤枝驛の本町に出るなり。」
 又云。「金谷より河原に出て大堰川(大井川)を渉り、島田に上りて、東の方二俣と都智山(とちやま)、白厳寺(黄檗・おうばく)山の際の山(ここを切通しという、これは大井河当山に添て渉り難し、故に開発(ひら)く処なり)を越えて阿知ヶ谷村に到り、金谷沢(かなやさわ・一名稲荷ヶ谷)を通り、薬師前に出、岸村の山根をすぎ内瀬戸村神明(社領三石五斗・神主岩本氏)前より、田の谷口(殿海道・上町屋・下町屋などの小地名この際にあり)の山路を経て、今の往還六地蔵の前に出て藤枝に到る。」(金谷沢より上海道を経て東光寺の登々沢に至るも順路なり)

(『駿国雑誌』1843年)

仮東海道の旧島田内のルート

 上記のルートを現在の地形図に落としたものが掲示した地図となる。島田宿が東海道宿駅として指定された(1601年)当時の大井川渡し場は、現在川越遺跡がある河原町先ではなく、向谷水神山下付近であった(そこから島田宿へは、現向谷街道の元となる道が使われた)と推定されているが、慶長9年の大洪水により「天正の瀬替え」(1590年)以前の流路となった大井川は、向谷の堤防を決壊させ、流れの北側は伊太口から旗指、野田の南端(現元島田)を浸していた。このため仮東海道の渡渉地点は、水神山北側の大鳥を中心とした地点となった。ここから天神原の丘陵を越え伊太に入り、現斎場入口辺りから再び山路を越え静居寺谷へと下る。当時、静居寺の谷口は沢が大井川の堆積土砂で塞がれ、大きな澱みとなって平地の通行は不可能だったため、東の尾根の山裾を南端の初指原(現敬信寺、法幢寺の辺り)へとトラバースし、さらに金子沢(かねこざわ・現法幢寺東側)を上り七兵衛原へと至っていた。七兵衛原は現島田第二中の裏山で、1月のおはようハイクで中央公園から上がった尾根の南端に当たり、また2015年の忘年山行ではここを通っている。現在は茶畑となっているが、仮東海道の通った頃には原の東西に茶屋もできていたのだという。2016年には「島田宿・金谷宿史跡保存会」の大塚淑夫氏らの現地調査で、一里塚の存在が確認されている。
 七兵衛原から二中体育館の裏手(茶畑に上る急傾斜の農道が付いている)に出た仮東海道は、附属島田中、島田第四小の北側(片瀬)を通り、島田宿駅となった南野田の長谷川代官所前に至った。因みに洪水によって移ったのは島田宿だけでなく、大井神社も遷座している。洪水当時、下島(現御仮屋)に鎮座していた「大井大明神」は流失を免れたが、祠を野田山山頂の「大井の段」に一時避難させた。この登り口に沿った沢は、現在も御手水ヶ谷(おちょうずがや)と呼ばれている。五代に亘って島田代官を勤めた長谷川家の屋敷は、当初は大津大草にあったが、初代代官となった長谷川藤兵衛(とうべえ)長盛(ながもり)の時に、屋敷兼役所を野田と元島田の境に移した。長盛の子・長谷川藤兵衛長親(ながちか)によって元和2(1616)年、島田宿四丁目北裏(現柳町)に島田代官所(御陣屋・ごじんや)が建てられるまで約27年間、野田に代官屋敷が置かれていた。これは天正の瀬替え以前の中世東海道が、北部の山間を越えていたことを示すと共に、島田宿の前身として元島田が在ったことが分かる。
 仮東海道は長谷川代官屋敷前で二手に分かれる。北順路となる東光寺道は、代官所から大津道を北上し友形の渡し(現供方橋)で大津谷川を渡り、上野田の神明山裾を回り込みながら東進し、大谷の峠を越えて東光寺谷へ抜ける。登取沢(ととりさわ)から尾根に上がり峠を越えれば谷稲葉へ、さらに瀬戸川沿いに下って藤枝宿へと繋がっていた。この登取沢の登り口には一里塚が残っていて、先に上げた七兵衛原の一里塚との距離は、ほぼ一里となっている。谷稲葉との峠は清水(きよみず)峠とも呼ばれ、大津や東光寺の住民が藤枝の清水寺に参詣する際にも利用されたようで、当時はここにも茶屋が出ていた。この峠にもまた、かつての忘年山行(市境尾根、~双子山)の折に立っている。峠の標高は195メートルで、東光寺道はアップダウンが大きいように思われるが、島田宿に比べ北にある藤枝宿との位置関係を見れば理があるルートと思える。現在の国一・藤枝バイパスと同じようなルート取りといえる。
 もう一つの仮東海道となる南順路・金谷沢道は、都智山(白岩寺山)を越えるルートとなる。代官屋敷前を東進し、山裾を大津谷川に沿って下り現在の法信寺裏手から地蔵山、金谷沢山の鞍部(切通)に向かって上り、金谷沢を阿知ヶ谷に下る。東光寺谷川を渡って岸の丘陵部に上がり大日堂、龍江院の裏山を抜け、市境の尾根を下って瀬戸新屋付近で旧街道に繋がっていた。白岩寺山の切通は、この峠越えのために人工的に切り下げたといわれている。切通の標高は131メートル、岸の丘陵部越え最高地点が138メートルであるから、東光寺道と比べ標高差の少なさが利点としてある。また、東の焼津方面との繋がりの良さもあったかも知れない。この南ルートの岸丘陵部の尾根も、かつてのおはようハイクで歩いたことのある場所である。幾多の災害によって遮断されたかに見える道は、都度形を変えながらそれを越える地点を見つけるのである。

(2020年5月記)

塩の道(南塩ルート)8

2023年10月21日〜22日 水窪・池島〜南信州・上町

○行 程
21日(土) 快晴
島田金谷IC(6:00)=〈新東名〉=浜松浜北IC=〈R152〉=水窪・池島(8:30)※兵越峠へ車デポ
池島(9:10)…足神神社(9:55〜10:05)…青崩峠登山口(10:35)…青崩峠(10:55〜11:05)…青崩嶺(12:15〜40)※昼食…遠木山(13:10〜20)…兵越峠(13:50)
距離:7.0km 累積標高:登り863m/下り335m 行動時間:約4時間(休憩含まず)
※池島へ車回収 兵越峠(14:25)=道の駅・遠山郷(14:50)
道の駅・遠山郷(14:58)…下市場諏訪神社(15:12)…和田城跡・龍淵寺(15:42〜52)…道の駅・遠山郷(16:20)※かぐら山荘泊
距離:4.08km 累積標高:登り・下り74m 行動時間:約1時間30分(休憩含まず)
22日(日) 快晴
道の駅・遠山郷(8:25)…押手沢引返し(9:20)…合戸峠(10:12〜22)…百体庚申(10:51〜57)…旧木沢小学校(11:15〜12:20)※昼食…梨元(12:30)…八日市場(13:23)※橋崩落通行止め、上島まで約2㎞引返し…上町正八幡宮(14:47〜52)…上町地場産品店(15:05)
距離:19.34km 累積標高:登り688m/下り513m 行動時間:約5時間30分(休憩含まず)
上町(15:40)=〈往路〉=島田(18:10)

足神神社

木地師の墓

青崩峠入口の「塩の道」碑

 青崩峠越えは本シリーズのメインの一つ。この峠を境に「塩の道(南塩ルート)」の街道名は信州街道から秋葉街道へと変わる。兵越峠に向かう道路との分岐点の水窪町池島から歩き始める。ヤマメ地蔵(鯖地蔵)、足神神社、悉平太郎墓、木地師墓などを見ながら歩を進めると、久しぶりの「塩の道」石碑が建つ青崩峠入口となって、石畳の山道を20分ほど登ると1082.5メートルの峠に出た。

青崩峠遠州側に祀られる石仏

青崩峠から遠州側を望む

青崩峠の信州側

 遠州側に三体の石仏が祀られた峠は稜線鞍部の幅3メートル位の切通しで、国境の峠にしては意外なほどこじんまりとしたものだった。信州側に少し下ってみると、左手に峠名の由来となった青いガレが凄惨な姿を晒している。この脆い地質こそが幻の国道となってきた理由であるが、現在、峠の深い地下では紆余曲折した三遠南信道のトンネルが貫通し、新しい「塩の道」が作られようとしている。峠の案内板には次のように記されていた。

青崩峠碑

 青崩峠は、遠州と信州の国境にあって古くからある信州街道(秋葉街道ともいう)の峠である。
 この道は昔から海の幸や山の幸が馬や人の背によってこの峠を越して運ばれたことから「塩の道」ともいわれている道である。
 また、戦国時代、武田信玄の軍勢が南攻のためこの峠を越えたと伝えられ、近世には多くの人々が信州、遠州、三河の神社、仏閣に参詣するためにこの峠を越した。
 近代においては、可憐な少女達が製紙工女として他郷で働くために越した峠でもあり、多くのロマンと歴史を刻む峠である。

青崩峠案内板

青崩嶺山頂

遠木山山頂

 当初の計画では峠を越えて信州側に入るつもりであったが、災害や三遠南信道工事に伴う通行の可否が不明で、県界尾根を北東に進み兵越峠へと迂回することとした。登り始めこそ急坂であったが、階段などでよく整備されたハイキングコースで、染まり始めの紅葉を見ながら気持ちよく歩くことができた。青崩嶺、遠木山、国盗山と進み兵越峠に出ると、明日行われる「国盗り綱引き合戦」の設営準備で多くの人が勤しんでいた。こちらは青崩峠と違って大きな綱引き大会もできるほどの広い峠で、武田の数万の大軍が越えるには相応しいか……。ここからデポしておいた車で和田の道の駅遠山郷に向かう。

 

下市場諏訪神社の御柱

下和田道標「右 三つ嶋(満島)左 あきは道」

街道の「辻や」屋号看板

猿田彦・金山大神碑

 道の駅遠山郷は光岳、池口岳などの登山の折に前泊場所、また帰路の温泉立寄りで何度か訪れているが、和田の町自体を散策したことは無かった。下市場諏訪神社、下和田道標、和田の街並、和田城跡・龍淵寺と街道を歩いてみた。赤石山脈と伊那山地に挟撃されたような狭い遠山谷にあって、僅かに平坦地を持つ和田が峠麓の宿場として栄えたのは、遠州側の水窪と全く同様の事情だろう。古い屋号の看板や立派な倉が残る旧道の街並にその名残を感じられた。面白いのは、出会う人たちに旅の目的を問われ、「塩の道」歩きと答えても何かきょとんとされたままで、「秋葉街道」歩きと答えて初めて納得の顔をされる。太古からの数多の「塩の道」通過点ではなく、近世になって確立され続いた「秋葉街道」宿場町として栄えてきた記憶の方が鮮明というわけだろう。

押出川橋脇の水神

合戸峠に祀られる大日如来と馬頭観音

木沢の百体庚申

 翌日は、合戸峠を越えて木沢へ、さらに上町までを歩いた。古道の消滅や大雨災害による橋の陥落などで往きつ戻りつする箇所もあって、思いの外長距離となったが、そうしたハプニングも古道歩きの旅の要素と思える。木沢に下る坂道で思いがけず顔を出してくれた南アルプス・兎岳と、下った先の木造の旧木沢小学校が殊に印象深かった。

木沢の坂上から望む南アルプス・兎岳

「あしたに仰ぐ ひじり岳 夕べに望む うさぎ岳」

(木沢小学校校歌より)

旧木沢小学校校舎

梨元停車場の旧森林鉄道軌道跡

 塩の道は南アルプス西麓の中央構造線の谷を北上して行く

(TG)

上島白山神社の霜月祭モニュメント

上町の秋葉・金毘羅碑

 昨年12月より、駿河湾に臨む相良より歩き始めた「塩の道」は、延々8回目、いよいよ佳境に入り、遠州より国境を越え信州に入ろうとしている。「塩の道」最大の難所である青崩峠越えに挑むのである。最近(2023年5月26日)、三遠南信道・青崩峠トンネルの貫通が伝えられたが、このトンネルのはるか600m上の古道を北側に越えるのである。
 北側の大ガレからは、ひっきりなしに土砂が谷間に崩れ落ちているという。不安と期待が入り混じるが…、急遽、青崩峠より東側の兵越峠まで県界尾根を迂回することになった。青崩峠より小嵐(三遠南信道・青崩峠の信州側の入口)までの「塩の道」は、最近の通行記録が無く、手入れも行われておらず、小嵐川の流路の変化も考えられ、崩落の危険や道迷いのリスクも高く、この迂回は致し方の無い判断であった。これは、水窪より青崩峠、信州側の小嵐、遠山郷、地蔵峠、高遠を経て諏訪まで、日本最大の断層である中央構造線が走っているためで、その西側は花崗岩帯、東側が水成岩帯とまったく異なった地質構造で、たいへん脆く、この中央構造線上に古道が拓かれたからである。
 長閑な秋日和、水窪の池島集落より高度差500m余の青崩峠を目指す。色づき始めた西側の紅葉山も碧天を目指して粧いを重ねている。峠までの見どころは、足神神社、悉平太郎墓、木地師の墓、信玄の腰掛岩……。執権北条時頼公の足を治したという霊験あらたかな足神神社。遠州見付の天神で妖怪を退治した霊犬悉平太郎の墓。漂泊の旅を続けた木地師の墓。それぞれに、古い歴史と物語が伝えられている。百聞は一見に如かず、只々うなずくばかりである。青崩峠に至る。ゴーゴーという音と共に強風が吹き抜ける。たいへん寒い。南の水窪側も、北の信州側も素晴らし展望である。西側には熊伏山への登山口が開いている。東側には苔むした石仏群が旅人の安全を見守っている。
 この旅に参加させていただき、本当によかった。楽しかった。今を楽しむ大切さを改めて感じた温故知新の峠越えでした。皆さん、お世話になりました。

(TY)

上町・ふるさと保存館「ねぎや」

 

森町 遠州山間地の道の交錯点

森町に通じる県道以上の山間道路

 遠州森町というのは実は島田とは隣り合せの町だ。と言っても川根塩本から東海自然歩道の平松峠を越える県道が、太田川上流部(吉川)の大河内に抜けているのだから、平成の市町村合併を経て川根町が島田市となった後のことだ。それまでは間に金谷町、掛川市があって、東海道のルートからは北に外れていたから、私にとっては大日山や春埜山を訪れた以外は、もっぱら水窪など北遠の山々への往来で通過するだけの町だった。遠州森町は太田川の谷口にあって三方を山に囲まれた小さな町だが、遠江國一宮・小國神社をはじめとする多くの歴史ある寺社があり「遠州の小京都」と呼ばれる佇まいを今に残しているのは何故なのだろうか。それは平成の大合併の最中、周智郡中唯一の町制を守った気概の在り処とも通じているのだろうか。
 東海道(国一)のルートからは大きく外れた森町だが、現在は新東名を使えば島田から僅かの時間で行くことができる。先のおはようハイクのゴール地点「門出駅」に隣接する島田・金谷ICから大代川を横切り、粟ヶ岳の下を潜って原野谷を抜ければ、次の森・掛川ICとなる。今はこうして直線的に道が貫かれるが、旧道においてもやはり大井川筋から森へと抜ける道がある。大代川の谷を溯り県道の庄司文珠トンネルを抜けると、粟ヶ岳・岳山(585.4三角点峰)と八高山との間の峠を越え掛川市丹間の谷となり、さらに原野谷を下れば城ヶ平(天方城跡)南側に出て森に至る。森からは現天浜線に沿った古い街道が都田、気賀へと通じ本坂峠を越えていたのではないか。森の石松ではないが、裏街道の存在である。
 冒頭に掲げた道もまた、家山→塩本→平松峠→大河内→三倉→城下(大河内→亀久保→鍛冶島→城下)を経て森に出ている。三倉から北に進めば気田川の谷に出て秋葉山に至る。ここから天竜川に沿ってさらに北上すれば伊那谷・信州へと至る。秋葉山常夜灯が随所に残る遠州森町は、秋葉街道(信州街道)の宿場であり、また遠州中央にあって東西通路と南北通路とが交錯する地点でもあった。三年ほど前にもなろうか、おはようハイクで二回に分けて菊川から掛川・原谷までの塩の道(秋葉街道)を歩いた。今回の森町散策は、その続きとも言える区間となる。
 大井川、天竜川という大河にあって、その上・中流域が峡谷で下流域との間の交通が容易ではない時代には、山間の集落の峠を越え、小さな谷を渡って物や人が往来した。そうした時代にあって、大井川右岸と天竜川左岸に挟まれた山間地の産物が集散されるのに、遠州森は絶好の位置にあったと言える。大井川右岸の川根筋においては、近代以降も遅くまで下流の金谷・島田といった鉄道駅のある町ではなく、森町との往来の方が多かったようだ。現在も森町を歩くと、茶や椎茸など山間の産物を扱う茶問屋の看板が多く目に付く。また反対に米や塩、日常品が森から山間地の集落に運ばれたことだろう。以下、先賢の浅井治平博士の論考を目にしてみよう。(2021年3月記)

森から家山への通路

鉄道開通前の遠州側の主要道路
(『大井川とその周辺』より)

 周智郡誌に「三倉家山往還と称する道」として「本郡三倉にて秋葉街道(信州街道)より分岐し、榛原郡下川根村家山に至り、川根街道に接す、(中略)本道は古来春野山、大日山に参詣の通路にして、又榛原郡より秋葉山への要路に当り、交通頻繁なりき」と書いてある。この道は森方面の人々が現在も利用する道で、森から三倉に出て三倉川の谷を上野平(五万分一秋葉山図幅参照)に進み、尾根道を登れば春野山大光寺に達する。別に適従谷に断層線まで加わった三倉川の谷を利用して大河内に進み、吉川の谷を登りつめると、割合に低い四八〇米内外の分水界に達する。この吉川と三倉川と、付近の断層運動との関係は、地理学的に興味深いものがある。ここから南一粁の尾根上に大日山金剛院がある。峠から尾根道を下ること一粁余で市尾に達し、必従河岸家山川の谷を下って塩本をへて上山に達する。すなわち三倉川や吉川は適従河川で、それらの河谷や、その削りのこしの尾根を伝って峠に出、そこから反対側の必従河川を下る道で、これらは皆、川の造った道といえるのである。そう云えば、前にのべた杉川や熊切川も適従河川で、これらに沿ったり、その間の尾根道なども河の造った道にほかならぬのである。
 この三倉家山往還は、春野山、大日山の参詣路であるが、幕末時代島田金谷の川越検問を恐れた浪人達は、岡部や藤枝から山中の裏道にかかり、江松峠から地名に出て、盥船を利用して石風呂に渡り、塩本でこの往還に入って三倉に達し、あとは秋葉街道と鳳来寺山道をとって御油に出たものである。この道をとると、第一に島田金谷の川越の検問や、川止めの難がさけられ、第二に浜名湖口の新居の関を通らなくてすんだから、凶状持ちの人々には天与の良道であったのである。
 しかし森から直接家山に行くには、城下から直ちに東北の尾根道に入り、黒岩山の南をすぎて大尾山(おびさん)に登り、尾根道を伝って前山から家山に達した。これが森からの川根街道で、太田川にそそぐ適従河川の造った尾根道を利用したことは、道路建設技術の発達しない徳川時代としては当然のことである。吉川の谷にそって問詰・鍛冶島から大尾山に行く道は明治以後のことである。

森の茶と古着市

 以上のように見てくると、森がいかに幕政時代から明治大正にかけて、川根筋に対して重要な地位を占めていたかがわかる。さらにくわしく云えば、森は信州街道の青崩峠から水窪、秋葉山をへて遠州平野に出る入口を扼し、秋葉山参詣客がここに蝟集して、交通上扇のような地位を占めるほか、太田川を利用して舟運がその河口福田(出)港に通ずる等、まことに四通八達の渓口集落を形成したのである。
 森・福田間の舟運は明治一八年頃までで、長さ三間位の小廻り船が用いられ、出水をまって舟を出したという。筏がかなり下ったのでこれも利用した。町の東部、太田川の東岸に船宿があったという。明治一八年頃、掛川との間に県道が改修され、森―掛川―相良と大八車が通うようになって、太田川の利用は減少した。
 明治の中期まで森では、「奥の衆」と云われた三倉川、吉川の谷の村落、気田川や熊切川の谷の人々と、「川根衆」と呼ばれた家山以北の大井川筋の人々を、商業的後背地として経済的に有利な地位を占め、山地物産の茶・繭・椎茸等を集め、米・塩・干塩魚・藁工品・衣料品・日用品等をこれら後背地に売った。川根茶はその中の特筆すべきもので、明治一五年頃の茶商は三百戸と称せられたが、現在は一二五戸(内再製二五戸、仲買人約一〇〇戸)である。明治初年には茶商で横浜に出店を持つもの六戸を数え、単に遠州茶だけでなく、三河の茶を始め、四日市を中心として伊勢・美濃の茶をも買い集めて、森茶として海外に輸出するほか、国内市場をも賑わした。森の石松物語りを表看板に森茶を宣伝するなど、森商人の商魂の逞しさは相当なものであった。
 森の古着商もまた商圏の広さにおいて茶に譲らなかった。同地出身の村松久吉氏の談による
「明治初年に森の茶商は太田川を利用して森茶を河口の福田港に出し、共同所有の観洋丸という小汽船で横浜港に出荷した。その売上代金を懐中にして箱根を越えて帰って来た。これは危険でもあるし、観洋丸の利用上にも不利であったので、その代金の一部で京浜の古着を買い集め、一包二〇貫から三〇貫に梱包して観洋丸の帰り荷とした。一方感洋丸は四日市にいって茶を買い集めたついでに、その地方の古着をも集めて福田に帰ったので、森は東京上方両地方の古着の集散地として、東海道筋に名声をとどろかした。その頃同町の有志が、松島見物にいって塩釜神社に参詣した所、境内の一隅に包装用の菰(こも)が乾かしてあった。何気なく見ると、正しく森の古着を包んだもので刻印にも屋号にも見覚えがあるではないか。「どこをどうしてここまで来たものか」と一同は首を捻りながら驚いたり懐かしがったりした。」
という。
 も一つ、森を繁昌させたのは、火防の神秋葉神社への表参道としての宿泊地であったことである。明治初年には年間約三〇万の人(と町の故老はいう)がここを通過宿泊したので、それによる繁栄は根深いものがあった。現在でも「旅籠町」の名が残っており、棟数四〇余軒、宿場町的遺跡景観が認められる。かりにその半数が宿屋であったとしても、なかなかの大規模である。途中三倉・若身平にも若干の宿屋はあったが、森には遠く及ばず、参拝者の大多数がここに泊ったものと考えられる。このように多数の他所者(よそもの)が通過して買物をする。その活況の中で、普通の谷口集落には見られない古着や茶の集散が行なわれるので、当時の繁昌は思いやられるのである。幕末に売り出された日本東西繁昌記の番付けに、森が五〇位あたりにあげられたことも当然なことである。これらの旅宿は森が郡役所所在地であった頃には、村長・助役・小学校長等の会合のための宿泊所となって、昔の夢をつないだが、今はそれすらも数少なくなったと嘆いている。

商圏の縮小と素通りされる秋葉詣

 大井川に舟行が許されてからは、川根筋の商圏は徐々に島田・金谷に奪われたが、昭和六年に大井川鉄道が千頭まで通ずると、森の商圏は川根筋から全く絶縁されてしまった。一方県道の発達とバス・トラックの進歩とは、いつまでも森を秋葉山の鳥居前町とせず、参拝客は二俣線の森駅や、袋井からの秋葉線により、或いは浜松から二俣をへて直接秋葉山に運ばれて行き、森に泊る必要はなくなった。交通の便はよいのに町には活気がなく、茶商の多いのはとにかくとして、町中には間口の広い住宅(しもたや)が多く、その背後には白壁の崩れ落ちた土蔵が立ち並ぶなど、おそらく往時の大商店の名残であろうか。衰頽の中に昔日の繁栄を物語っている。
 交通の利便によってかち得た昔日の繁栄が、同じく交通機関の進歩によって衰える。不思議なことである。都市の運命と個人の運命とが何か似通っているように思われる。

――浅井治平著『大井川とその周辺』第三章「川の造った道」より――

*「必従谷・適従谷」解説

 一般に云えば川はその流域の自然の傾斜に従って高い所から低い所に図のbdのように流れる。これを必従河というが、図に示すように地層の弱い所(図のabc)や、走向断層などにはまりこんで、必従河とほぼ直角になるような適従河を造る場合もある。

広重「掛川 秋葉山遠望」の山は?

歌川広重の有名な浮世絵、東海道五拾三次之内「掛川 秋葉山遠望」である。画に描かれている場所は東海道と秋葉街道との追分にあたる大池橋で、渡った先に秋葉山遥拝所が建つ。「秋葉山遠望」であるから、右に描かれている山が秋葉山ということになっているが、はたして本当にここから秋葉山を望むことができるのか、過日の 「塩の道」ウォークで話題となった。

掛川市大池の秋葉山遥拝所

遥拝所裏側、見えている山は大尾山か?

 

秋葉神社の裏手から鳥居と拝殿の延長線の方角を望んでみるが、これはどうも真北方向で見えている山は大尾山辺りではないかと思われた。秋葉山の方角はもう少し西となるはずだが、小高い丘に建つ住宅地に遮られ先の眺望は得られず疑問は残った。本当に当時、大池橋で秋葉山を望むことができたのか考察してみたい。

図1 秋葉山方向の山

図2 秋葉山方向の断面図

秋葉山山頂(885m)は、大池橋の遥拝所から見て北北西333°、距離25.7kmの方向にあたる(図1)。地図のとおり、この方角の秋葉山手前には、城ヶ平(天方城跡)248m、本宮山(小國神社奥宮)511m、高塚山496m、光明山540mなどがある。また、天竜川を越えた背後には橿山1059.2m、戸口山1026.7mが、稜線上の北側には竜頭山1352.1mがある。秋葉山方向の標高断面図を作ってみると、遥拝所から約15km地点のピーク(本宮山と高塚山を結ぶ尾根の中間にある580m標高点)に僅かではあるが遮られ、秋葉山山頂は望めないようだ(図2)。また大池橋地から北北西320〜360°の展望図をソフト『スーパー地形』で作成したが、やはり330°の方向に秋葉山は望めていない(図3)。

それでは広重は、付近の少し小高い場所から秋葉山を遠望し、この画に嵌め込んだのだろうか? 試しに大池橋より秋葉山方向へ約1.1kmの54.7m三角点で試みるがやはり望めず、秋葉山が頂を覗かせるのはさらに100m程の高度が必要となった。やはり秋葉山はこの場所からは見えていなかったのだろう。

広重の東海道五拾三次画において実景では見られない山が描かれるのは「小田原 酒匂川」、「金谷 大井川遠岸」などでもみられることだが、掛川においても同様にその方角にあるべき信仰の山として、実景にはない秋葉山を描き入れたのだろうか? あるいは画に描かれている山は、現在の秋葉神社上社が建つ885mのピークとは異なるのではないかという疑念が湧いてきた。

図3 遥拝所北北西の展望図

昼の休憩場所とした十二所神社(秋葉山遥拝所から北西方向に約1km)近くで、同行のIK氏が「あそこに見えているのは竜頭山だね」と話された。現役時代の勤務地がすぐ近くであった氏にとって、ここからの竜頭山の姿は見慣れたものだったに違いない。図3で掲げた展望図中の竜頭山を拡大してみた(図4)。この竜頭山と左の天神山(竜頭山南稜線1.4kmの1,260mピーク)を合わせた姿は、何やら「掛川 秋葉山遠望」に描かれる山の姿と似通ってはいないだろうかと思われた。

図4 拡大した展望図で見る竜頭山

北遠の常光寺山から秋葉山に至るこの稜線にはもともと古代から巨石(磐座)信仰があり、さらに中世になると熊野修験や白山信仰が入り込んで修験回峰の場となっていった。そうした神仏習合の修験道の霊場としての信仰を背景として、江戸期に入ると火伏の神としての秋葉信仰が広く普及していった。当時の秋葉信仰の中心は秋葉三尺坊大権現=秋葉寺(しゅうようじ)であり、その奥の院として竜頭山があった。

――秋葉寺の「奥の院」は竜頭山であった。「奥の院」ということは、一般的に元々の寺社の場所ということから、ここでは竜頭山が秋葉寺の元(神体山)になると考えられる。現在でも、竜頭山の西からの登山口に奥の院を示す道標(1769年銘)がある。竜頭山の標高は1,352mで、頂上に続く南側の岩群の場所にかつて祠があった。そこは現在、祠跡のある付近である。祠跡の岩が磐座と思われる。つまり、竜頭山が秋葉信仰の当初の聖地であり、後に頂上から200mほど低い天竜林道沿いへ大登山霊雲院が移され、さらにその後、赤石山脈の南端である秋葉山へ信仰の中心が移り、秋葉大権現が出来たと考えられる。

(「秋葉古道の成立過程と果たしてきた役割の研究」中根洋治他、

2012年『土木学会論文集 D2(土木史)』所収)

図5 秋葉古道南部拡大図(同上)

 江戸期の秋葉信仰において「秋葉山」とは885mピーク(現秋葉山)に留まらず、稜線北方1,352mピークの奥の院(現竜頭山)をも含むものであったことは明らかだろう。とすると「掛川 秋葉山遠望」に描かれた山は、 あの場所から実際に望むことができた竜頭山だったのではないか。むしろ本来遥拝すべき神体そのものは竜頭山の方で、東海道追分を行く人々は奥の院=竜頭山を「秋葉山」として遠望したのだろう。「掛川 秋葉山遠望」の完成は1833年、広重は当時の盛んな秋葉信仰の様子を画に込めていたのだ。

(2023年1月記)